岐阜へ行く 地域のコミュニケーションを見る

友人らと岐阜へ行った。鵜飼を初め観光っぽいものもしたのだが、ここで書きたいのは祭りについてだ。

火祭

火の粉が雨のように降り注ぐなか、若者(とオッサン)が神輿を担ぎそれを浴びながら通る。今回みた「火祭」だ。写真を乗っけとくと(毎日新聞

画像で見ればわかるよう、担ぎ手はかなりのやけどをするようだ。荒々しい祭にふさわしく神輿の担ぎ手は地元の若者、それも金髪だったりいわゆる「ヤンチャ」な感じの若者たちが中心だ。

失われゆくコミュニケーションを見た

神輿は町ごとにつくられ、町ごとに個性が異なったり、担ぎ手からも他の町に負けまいとする(祭りの主旨は競うものではないが)雰囲気が感じられた。そこで感じたのは、古き良き日本のコミュニケーションである。こうやって「ヤンチャ」な若者に連帯感や「町の住民」というアイディンティティを与えていたのかな、おっさんも一緒に担いでるけど、こりゃこの後は顔見知りになるだろうな、一種の兄貴分的存在になるだろうな、と。都心部では失われている地域へのアイディンティの形成を垣間見たようで非常に貴重な体験をさせてもらった。
政治学はよく地方自治で重要なのは自分たちの町を自分たちで見るという感覚と言われる。こういった体験がそれらを作る基礎となるのだろう。最近政治の上層では「地方自治」と騒がれているが、住民レベルでこういったコミュニティが失われつつあり、なにかこう矛盾というか、なかなか難しいだろうなと思った夜であった。