透明性の確保は民主主義に必要なコスト

考えさせるエントリーがあった。以下キモを引用。(引用元の文章はすごく良いものなので是非読んでみてください。)

(役所の)仕事は無駄が多いと思う。具体的にどんな無駄が多いのかというと、「自分たちが不正を働いていない証拠を作る仕事」が異様に多い。
どうでもいいと思うようなことまで全部記録してファイリングして保存する。たとえば、役所からは毎日何百何千の郵便物を送るんだけど、その宛名と担当課を全ていちいち記録している。確かにこれで、職員が切手を私用で使うことは不可能だ。でも、書き写す係の職員を何人も雇わなければならず、その賃金のほうが、悪い個人がたまに切手をくすねる額よりも遙かに多いと思う。
(中略・その他の具体例)
これらは全て、住民が行政に対して「もっと正確に」「もっと公平に」「もっと透明に」を求めた結果なのだ。確かに正確も公平も透明も大事だけど、これじゃ「正確な仕事」ではなく「正確“が”仕事」だ。「仕事」の部分はもはやサブである。
お役所でバイトして分かったこと

以上のように役所の非効率性がよくわかる記事になっている。
しかし思うのは、役所ってのは「正確が仕事」でよいのだと思う。なぜならば役所の行う業務というのは代替の効かないもので*1、かつ僕らが金を出し合って政府(あるいは地方行政機構)に任せて行っている。だから、万が一にも間違いや不正を犯してはならない。つまり代替が効かない以上、不正で機構そのものがぶっ飛んでもダメだし、僕らの税金で運営している以上、僕らに知る権利がある(逆に僕らはしっかり監視しなければならない)ということだ。不正を防ぐのに一番いい手段は透明性の確保だ。オープンにすれば誰でもチェックできるし、不正をする側にとっても尻ごみする要因となる。つまり役所という機関にとって透明性の確保は最も重要なことである。
だけども透明性(情報公開)を確保するにはカネも人もかかる。それは当然のことだ。これは公的組織に限らず、上場している私的企業だってヒイコラ言ってる。最近は特に厳しくなったから中には上場を廃止する企業も出てきてる。
つまり言いたい事のロジックはこうだ。

  • 役所の仕事は代替がきかないし、税金で運営している。
  • よって極力(万が一にも)不正や間違いがあってはならない。
  • 間違いをなくすためには透明性を確保するのがベストなソリューションである。
  • 透明性にはカネと人的資源がかかる。
  • ベストなソリューションにカネと人的資源を出すのは当たり前。

こんな感じ。透明性は絶対だから多少の非効率はしょうがないと。でももちろん今の役所の仕事を絶賛してるんじゃない。もっと工夫をして効率的に運用をすべきだと思うよ。そしてこの効率的な運用は、工夫レベルではなくて制度レベルで変えなきゃいけない。引用元のコメント欄に電子化と効率化の話が上がってるけど、役所の非効率性ってのはむしろ制度的な要因が大きくて、電子化したところであまり変わらない。
例えば役所は「稟議制」のもとで動いている。この制度下では何か決めるとなると少しでも関係する部署に行って、担当者にハンコついて貰う必要がある。これだと電子化したって結局紙に印刷してハンコついて貰わなきゃいけない。うん、電子化の意味がない。
市民のサービス面の例でも1つ。最近ネットで住民票とかの請求用紙をネットでDLできるようになった。だけども結局DLして印刷して記入して、役所に送らなければ欲しいものが手に入らなかったりする。ネットで利用できるんだけども、ネットで完結しないんだわ。これは制度として国民番号ないのが原因だ。国民番号ができればパスワードを登録してネットですべて完結できるようになる。この2つの例は制度を根本的に変えないと電子化したところでなにも効率的にならない事を示している。ようは新しい道具の導入だけじゃ納入業者を喜ばすだけだと。
さて、まとめ。役人ってのは欧米ではシビル・サーバントとも言う。「市民の使用人(公僕)」だ*2。使用人である以上、多少非効率でも手厚いサービスだったり、安全で失敗のない運用を行って市民の生活を守るのが務めだと思うんだ。そこで発生するコストは市民にとって必要なコストでしょうよ。一方の主人も主人で分かってあげないといけないな(むしろこっちの方が問題かもな)。
追記:いい表現を思いついた。アカウンタビリティ(説明責任)を重視されるのが公的領域で、レスポンシビリティ(結果責任)を重視されるのが私的領域。つまりパフォーマンスよりも過程重視なんだわな公的領域は。

*1:代替がない=市場に任せられないから公的業務なのだ。

*2:どうかサーバントを悪い意味を感じないでほしい。家政を預かるのが執事、市政を預かるのが公僕、的な感じ。