大澤真幸セクハラ辞職

死刑制度の是非について、東洋経済に面白いと思う記事があったので引用したい。
ちなみに書き手は大澤という京大の教授だ。 彼は死刑制度廃止すべきという観点から、存続論者に以下のように投げかけている。

(略) 第一の提案。鳩山邦夫が法相だった時、彼が多数の死刑執行命令に署名されたことが非難されたが、これはお門違いの批判である。彼は自らの責務を「ベルトコンベア」のように果たしただけだらかだ。法相を非難するならば、死刑そのものを撤廃しなくてはならない。法相への非難には、「汚れ役」を他人に押し付けた上で、死刑の存続を主張する、ケチな根性を見出さざるを得ない。
そこで法哲学者の井上達夫は、死刑制度は主権者たる国民が選んだものだということを、つまり国民自身の責任を自覚させるために、国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度を提案している。私はさらに進んで死刑を執行する刑務官の仕事を国民からランダムに選ばれた者が果たすことを提案したい。
死刑は殺人への刑罰だが、死刑自体がもう一つの殺人である。つまり死刑制度があるということは、誰か(刑務官)が(犯罪者を)殺人しているということ、その誰かが犯罪者と面と向かい合って殺しているということである。死刑の存置に賛成し、それが正義であると胸を張って主張するのならば、自らが殺人者(死刑執行人)になることから逃げるべきではない。誰かが「その役」を自分の代わりに果たしてくれる限りでのみ賛成だという態度はフェアではない。 (略)
大澤真幸「人を殺すことの意味を突き詰める」週刊東洋経済2009.3.21)

ロジックと意図の確認

斜め読みで済ましがちな諸兄らのためにまず彼のロジックを確認しておこう。

  1. 日本には死刑制度がある。
  2. 同時に日本は民主主義である。
  3. つまり国民が(該当する人間を)死刑をするべきであると認めている。
  4. ホントにそうなの?ちょっと執行人の気持ちになって考えてみろよ。

お前ら執行人になれる覚悟あんの?汚れ役だけまかせてないか? というものだ。ちなみに彼の提案は実現しろというものではなくて、存続論を唱えるなら当然こういう考えだよね?と投げつける論法の一種である(と思う)。

所見:大澤の意見は正しい

そういえば昨日彼女に「死刑制度に賛成か?もし賛成だったら自分が執行できる?」と質問をしてみた。彼女の答えは「死刑制度には賛成」「でも執行はできない。自分がその人と同じように殺人者になってしまうから」と見事に大澤の指摘する人間であった。どうなのこのダブルスタンダード。でもこれが日本人に一番多い感覚なんだろうと思う。
欧米人はよく死刑は残酷な刑だ。それが残っている日本は野蛮な国だという。西洋人と日本人の(上記みたいな)考えのギャップは民主主義の意識、すなわち「自らが政治に参加している感」のギャップから来ていると考える。日本人は西洋人ほどその感覚がないんだよ。自力で血を流して民主主義を勝ち取ったわけじゃないから。
論理的にいえば法律=自分たちが決めた法律である。しかし日本人は自分たちが法律を決めた感覚がないから平然と「死刑は賛成」「でも執行は誰かやってね」と言えるのだ。あなた、死刑に賛成している時点で殺人に協力してますよと。日本人は政治は自分たちでしてる感覚がないからこういう意識が生まれない。そしてこれが一番の問題だ。
僕はそんな理由で今年から始まる裁判員制度は賛成だ。裁判員は事実の認定と量刑二つに参加できる。裁判員として参加した人は自分と関係のないと思っていた法律に生まれて初めて関わることになる。大いに考える機会になるだろう。
裁判員を経験した人が10年後・20年後、「平成の事件を振り返る」みたいなテレビ番組(もちろん今あるテレビ局は生き残っていない)が放送されたとき、自分の子供に「ああ、この強姦強盗殺人魔、お父さんが死刑にしたんだよ。」と堂々と言えるだろうか。そしたら子供に「この人は人を殺したから死刑になったんでしょ?この人を殺したお父さんはなんで何もされないの?」とかいわれちゃったりな。
とりま、このエントリーを通して一番言いたかったことはもっと諸兄らに政治・制度・法律を身近に感じてほしいというものである。日々思う事を一瞬で忘れないで、誰かに話したり、心に取っとくことがまず第一歩である。 日本は民主主義だ。諸兄らが考えずして、誰が日本を運営をするのか。 僕たちが思考停止したら、国家の運営は目をつぶって車を運転してるようなもんだよ。