山本譲司『累犯障害者』

子飼弾の書評につられて買ってみたのだが、考えさせられる一冊だった。
内容は題名通り、障害者の犯罪について書いたもので、感じとしては無限回廊にある1960年代以前の記事をひたすら読むイメージ。犯人の背景の悲しさとか社会に対してのやりきれなさが残る点が似ている。無限回廊を読んでちょっとダメだわって人は厳しいかもしれない。

健常者と障害者の違いは確実にある

障害者と健常者は同じ人間である。だがしかし育った環境も、考え方も、価値観も違うことは確実だ。例えば我々は論理を持って正しいとするが、障害者にその物差しはない。裁判や取り調べにおける犯人たちへの尋問の描写は、なにか現代人が中世ヨーロッパにぶっ飛んで、こんこんと科学を説くが「えっ?でも神がああいってるから」ともはや別次元でのやりとりにも聞こえる。つまり話のレイアーが噛み合わないのだ。(誤解があるといけないので。別に健常者が正しくて、それを障害者が理解できないというわけではなく、行動の基をなしている根本的な原理が違うということ。)

「正さん、長い間、大変でしたね。拘置所の中の生活はどうでしたか?」
正さんは、「うん」と言っただけで、下を向いてしまった。思った通り、中傷的な質問には答えられないようだ。
「私も拘置所に入っていたことがあるんですよ。今の時期は本当に寒いでしょうね。正さん、あそこの中は寒かったですか」
私が拘置支所を指さしながら、そう尋ねると、正さんはうつむいたまま答える。
「うん、寒かった」
さらにもう一度質問してみた。
「でも、建て替えで新しくなっているところもあるようですし、もし正さんがあそこにいたら、そんなに寒くなかったかもしれませんね」
「うん、寒くなかった」
今度は、反対の言葉帰ってきた。だが結局は、「オウム返し」なのだ。これでは取り調べの中で、いくらでも供述を誘導されてしまいそうだ。
83-84頁

ここには論理という我々の世界の物差しは存在しない。
それにもかかわらず、障害者たちは論理という健常者の世界の物差しでもって、健常者の世界の中でも「超常識人」たる検察官に責められ、弁護士に守られ、裁判官に裁かれる。裁判を取り巻く健常者たちはロジックの世界のエリートで、まさかそれが通用しない世界なんて全く理解不能なのだろう。例として本書に描かれる母親(1年半前に死んだ)と住んでいた家に「住居不法侵入」で捕まった知的障害者の裁判の様子を紹介する。

「もうあそこの家は、君の家じゃないんだ。お母さんもいないの。勝手に他人の家に入ったら犯罪になるんだ。それくらい分かるだろ
被告人は法廷に入って以来、肩をすぼめてふるえていた。その顔は、今にも泣き崩れそうな表情である。
「君ね、刑務所から出てきたばかりでしょ。もう悪いことをするのはよしなさいよ」
「うおー、うおー、うおー」
突然被告人がせきを切ったように泣き声を上げだした。それに対して、検察官は大きなため息をつく。一方、国選弁護人である若い弁護士は、閉口したように顔を歪めている。
「おかーたーん、おかーたーん、うおー、うおー」
母親に救いを求めるようにあちこちに目を走らせる被告人。するとだ。ズボンの裾から液体が漏れてきた。どうやら、彼は失禁してしまったらしい。そして鳴き声は、さらに大きくなった。
「はい、はい、休廷」
裁判官が、邪険そうに言い放つ。
234-235頁

知的障害者に健常者の物差しは全く通用しない。「それくらい分かるだろ」と超常識人である検察官は言うが、分からないのである。彼にとってはずっと住んできた家で、今なぜ入って行ってはいけないのか分からない。分からないのだ、本来は裁きようがない。
社会のルールを作ってるのは健常者である故に、障害者らに施される教育は健常者の世界にすり寄っていく為の技術だ*1。もしそれら技術の習得に不足であった場合、上のように健常者の物差しで裁かれることになる。本書では「障害者を刑務所の入り口に向かわせない福祉が必要である」と問題を提起して締められており、まさにその通りであるように思う。

東京の養護学校性教育問題

彼らの物差しと、我々の物差しが違うことを頭に入れておくと、東京都の七生養護学校で過剰な性教育の問題もしっくりくる。この問題、知識のない子供たちにヒドイ教育を!!と議員が騒いだのが始まりだ。しかしどうも教員側にも言い分があり、それを下に引用する。リンク先もなかなか良いので是非一読あれ。

とても大切なところだと教えなければならないから。自分の体の大切なところを守り、他人に見せたりするものではないと教えなければならないから。それは自分以外の人にとっても大切なところだからうかつ触れたりしてはいけないと教えなければならないから。ハッキリくっきり具体的に正確にそう教えなければ理解してくれない子供達だから。
都議会議員の田代ひろしと古賀俊昭と土屋たかゆきは、○○まみれの手で顔をヌルってされる現場で半年ほどバイトしてみるべきだろう

ようは知的障害者のためにカスタマイズした性教育が健常者の議員には「常軌を逸した」と映り、現場の教育関係者を左遷したという言い分だ。過剰な性教育だと騒ぎたてた議員は「我々の物差し」で障害者の教育を判断してしまったのだろう。一方で日常から障害者に接する教職員は障害者の物差しでプログラムを作ったと。問題は一般人からみて明らかに教育が異常に見えてしまうことだ。手製のダッチワイフに棒突っ込んで教え込む性教育は騒ぎ出した議員でなくとも遅かれ早かれ批判がおこっただろう。だからまず必要なことは、健常者と障害者どちらが正しいとかそういう意味でなく、持っている物差しが違う(神々の闘争)という点を知るべきである。また、物差しが違うが社会の構造上、現時点において健常者の物差しで社会のルールが定められており、このギャップを埋めるのが福祉であると思う。
その福祉については子飼弾の言い分があまりに本質をついてると思うので、敗北宣言とともに引用させてもらう。

福祉というのは、結局のところ、「かわいそうな誰か」を助けることではなく、「いつ不幸になってもおかしくない自分たち」を助けるために存在するのではないか。そうでなければ、わざわざ社会に参加し、その費用を負担する理由もまたなくなってしまうのだ。
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ふとした事故、あるいは自分の子供の可能性を考えると、いつまでも常に健常者としての物差しを持っているとは限らない。それを考慮してこの問題に取り組まなければならない。

*1:本書では聾者に教える手話ですら、聾者間で用いられるものではないと指摘している