自民党時代の官房機密費:情報収集と宴会費


民主党が野党時代に使った官房機密費への追求がブーメランとなって自らを攻撃している。そんなわけで過去の官房機密費にかかわる問題を以下整理してみた。
かつて何回か官房機密費(正式には内閣官房報償費)は問題になっているのだけど、問題はだいたい2つ。 個人の私的な使用 と 与党の党略に基づく使用 という、いずれも使用用途を公開していないから起きる問題だ。ただし、報道や議事録を見ていると、国家として情報収集にかかわる機密費は必要であるというコンセンサスは各党にあるように思う。
機密費については、かつて田中真紀子が外相の時に松尾事件(外務省のノンキャリの星と呼ばれた松尾克俊が外交機密費を競馬等に数億円私的流用した事件)が起こり、外交機密費のついでに官房機密費にも飛び火した経緯がある。んでもって、その後に塩川発言(後述)とか機密費から自民党議員のパー券を買ってる*1とかが議論になって、2002年6月に福田官房長官(当時)が3つの使用目的に官房機密費を使うと初めて明文化した*2
その3つ(+α)とは

  • 政策推進費(=「官房長官の高度な政策的判断により、機動的に使用する経費」):法案取りまとめや成立に向けた、関係団体との会食費
  • 調査情報対策費(=「必要な情報を得るための経費」):政府高官と情報提供者との会食費や情報提供者への謝礼など
  • 活動関係費(=「政策推進や情報調査活動を支援する経費」):与党などへの支出

それらに加えて

読売新聞 2002.06.23「官房機密費に運用指針 3分野に使途限定 出納簿を整備 政府、初の明文化」をもとにまとめた

この明文化ももはやあってないようなもので、やりたい放題できることが明文化されただけだ。つまりは少なくとも月に数千万円は官房長官の決裁で完全自由に使うことのできるお金であると。発表の同時期に報道されたのが加藤紘一官房長官の時に公明党(当時野党)議員にスーツの仕立券を送ったって話だ。これが立派な「政策推進費」だという。では与党議員のパー券を買うのも政策推進費なのだろうか。
さらにはずさんな使用用途は塩川正十郎官房長官経験者)と共産党の穀田恵子の国会でのやりとりからもみられる。野田が官房機密費を自民党の党略に使っていると追求。サンデープロジェクトでの塩川の失言(?)を追求。

問題の核心は、七十二億円もの国民の税金が国会対策やせんべつに使われていたという、機密費の党略的な流用にこそあります。(中略)
本年*3一月二十八日放映されたテレビ朝日の「サンデープロジェクト」という番組で、機密費について発言をなされています。私は何度もそのビデオを見て確認しましたが、こう言われています。
(機密費を)野党対策に使っていることは事実です。現ナマでやるのと、それから、まあ要するに一席設けて、一席の代をこちらが負担するとかと述べ、どなたが金庫に入れるのかとインタビュアーの質問に答え、官邸にあります会計課長です。それは、参事官がおりますが、それと相談して入れます。幾らぐらい常時入っているのですか。私が官房長官のときは四、五千万ですかね。一週間に一遍ぐらい、あるかどうか会計課長がのぞきに来て、それで足らなかったら、ちょっとふやして入れてくれるという状態ですね。大体百万円単位で袋に入れています。こんなふうに語っています。この発言は事実ですね。
平成13年5月15日 衆院予算委員会

この後の答弁と質問のやりとりめちゃくちゃ面白いので一個下のエントリーにコピペしておいた。一貫した「記憶にございません」の腹芸が見られる。でもまあ塩爺官房長官だったのは宇野内閣の時で、随分古い(89年)上、2カ月間だけだから実際あんまり知らないのかもしれない*4
こんな風に使われてたのが官房機密費だ。確たる証拠はないが選挙対策にも使われたんだろうなあと考えるのが普通だ。そしてこれは国のお金であって、党のお金ではない。
今日のニュースで今年の選挙直後に2億5000万円支出したことも明らかになった。これに触れて浅尾慶一郎選挙で使われたかもねと言ってるが、鳩山は前政権のことであって「とやかく言うつもりはない」と調査しない意向だ。
さて、この発言でありありと筋書きが見えてきた。近々機密費の話は立ち消えになるだろう。何故なら、民主党が攻め立てられ「じゃ、過去の使用用途を調査の上、ルールを作りましょう」てな流れになったら攻守逆転、今度は自民党が攻められる番だ。鳩山が2億5000万円について「調査しない意向」というのは単にカードをチラつかせたようにしか思えない。さあこれから数年間、機密費を使えるのは民主党の番だ。

重要な追記) 読売の記事から。政権交代後、新官房長官に交代した際金庫から金は消えていたそうだ。

平野長官はこの日の記者会見で、河村前長官から官房機密費に関する引き継ぎを受けた後、金庫の中には、現金が全く残っていなかったとした上で、「前政権の官房長官が必要に応じて支出された。国民目線からおかしいと言っても、私の立場でコメントするのは差し控えたい」と話した。
読売オンライン 「衆院選直後、機密費2億5千万円支出…使途は不明

上の塩爺の話からみて、官房機密費は「常時ストック」されていて必要に応じて使う性質があるようだ。にもかかわらず金庫に現金が空っぽだった、というのは川村官房長官が持って行ったと考えるのが普通だ。いかんせん現ナマだし、足をたどるのは無理だろう。

関連エントリー塩川と穀田のやりとり全文

*1:読売新聞 2002.04.13「12日公表された共産党の官房機密費文書要旨」東京朝刊

*2:読売新聞 2002.06.23「官房機密費に運用指針 3分野に使途限定 出納簿を整備 政府、初の明文化」

*3:2001年

*4:ただし、任期中に参院選もあったので選挙対策目的での支出があれば知っている立場だ。

ローマに学ぶこと:外国人を国力にする方法

かつて米国留学から帰朝したした友人が「アメリカの強さというのは、世界中から優秀な人材を集めてアメリカのために働かせてしまうことだ」と留学の感想を述べた。自分的にこの話は衝撃的で、すっかりそれ以来この意見の信奉者になってしまった。確かにアメリカに留学から帰ってきた友人でアメリカ嫌いになった人を見たことがないし、インド人や中国人が留学した後、そのまま米国に留まって起業したり就業したりすることからも、「アメリカに行くとアメリカ好きになる」というそれは感じ取れる。
米国では最近、学位の取る人の割合が非アメリカ人に増えている事が問題となっているようだが、むしろそれは世界中から優秀な人材を集めている証拠であって、今まで通り彼らをそのままアメリカのために能力を使わせることができるのなら、なんら問題ではない。
そんなことを思っていたのだが、ふと今日、塩野七生の『ローマ人の物語』の文中からローマも全く同じ戦術を使っていた事に気付いた。以下引用。

百人の人質をローマに送る件も、これは以後もローマ人がよく使う手なのだが、行ってみれば、好きな時に帰国できないという制約はあっても、フルブライトの留学生と同じようなものである。年齢を若く抑えているのもそのためだ。ローマは、旧敵国の指導層の子弟、つまり旧敵国の指導層予備軍を選んでローマで学ばせ、ローマのシンパに育てるやり方を好んだ。人質と言っても、牢獄に繋がれるわけではない。適当な家庭に預けられ、家族同様に扱われ、その家の子供たちと一緒にその家の家庭教師に学ぶのが、ローマ人の考える人質であったのだ。
塩野七生ローマ人の物語 ハンニバル戦記 下』86頁

つまりローマの方法は他国から留学生を受け入れて、彼を本国帰国後にローマ寄りの政治をさせようという腹だ。近年、日本もMBAが政財界で流行っているが、多くのMBAアメリカで取得する。そしてなんかMBAホールダーってアメリカかぶれが多いじゃない。こうやって日本の上層部のアメリカ好きは育っていくんですね。まるっきりローマ戦術にハマってる日本である。
さらに、ローマの強さは外国人を登用する力にもある。アメリカが優秀な留学生をそのままアメリカで就業させる環境と似ている。

自立した市民の数が多ければ多いほど、その国は強く、農耕地の手入れもゆき届いて豊かになる。ギリシアの現状は、これから最も遠いところにある。
反対に、自由な社会のあり方を進めているローマを見るがよい。あの国では、奴隷さえも社会の構成員だ。何かあるとすぐ、彼らにさえ市民権を与える。市民にしてやるだけでなく、公職にさえ就かせる。立派なローマ市民だと思って対していると、一代前は奴隷であったなどということは始終だ。
塩野七生ローマ人の物語 ハンニバル戦記 下』114頁

思えば日本となんとこの力が弱いのだろうか。ただでさえ能力のある人に対してのやっかみが激しいが、それが外国人となったらさらに激しい。アメリカで例えるならば、カリフォルニア知事のシュワちゃんオーストリアから、グーグルの創業者も一人はロシアから渡ってきた。いずれも実力でのし上がった成功者だ。しかし、もし日本であったら彼らが成功を収めているだろうか?私は到底思えない。日本でグーグルを立ち上げたとしてもおそらく資金調達すらできないだろう。移民のマッチョが知事選にでても泡沫候補だ。あ、大阪なら当選するかもしれん。まあとりあえず、日本でこの手の成功者と言えばソフトブレーン宋文洲くらいだろうか。
日本の人口減少を見るに、遅かれ早かれ外国人の受け入れ(それも大幅な受け入れ)は必須となるだろう。どうせ受け入れるなら早めに考えた方がいい。外国人の参政権や労働者の受け入れの議論は感情的な話が多すぎる。中国人が日本に来てあふれたら危険だ、という見方をするよりも、中国人が溢れるほど日本に来て日本のために働いてもらうと考えれば、お互いハッピーなのではないだろうか。ローマもアメリカも、外国人が大きく国益に貢献していることは間違いない。外国人を排斥するのではなくて、外国人に働いてもらうくらいの意識を持った方がよいと思うのだがどうだろうか。

雨の日だからこそ幸せの沸点を低くする


雨の日が嫌いじゃなくなった。むしろ今じゃ好き。なぜって風が強かったり、雨が強かったりするとなんとなくウキウキするし(多分ガキのころ台風が来ると休校になった経験からきている)、それに他の人が雨の日を憂鬱と思ってるのに自分だけ嬉しく感じるのは何か得した気分だ。
人間の気持ちって成せば成るというか、持ちようで変えられる。だから雨の日は嬉しいと感じることや幸せに思うことの沸点を低く設定した。そしたら雨の日って結構いいじゃんと思うようになった。人間って思い込みの動物で、小麦粉を風邪薬だよって飲まされても風邪が治る*1。意識次第で結構どうにでもなる生き物らしい。
さてさて、雨の日ってイライラすることが本当に多い。今日も寿司詰めの電車に乗ったはいいわ、真ん前がオッサンの頭で加齢臭が鼻を直撃。あーもうホントやめてくれ、イライラするなあと思った。だけど冷静に考えてみるとこのオッサンだって俺をイライラさせるために頭頂部に不毛地帯を作ってきてる訳じゃないし、なんで俺そんなんでイライラしてるんだろ。考えてみればウチもハゲの家系だし、数十年後、いや、事によると数年後にはこうなってるかもしれん、イライラしてはいかんいかん。と思ったら急にイライラはなくなった。
結局のところ、雨の日に感じる多くのイライラの原因は自分だ。相手は別に自分をイライラさせようと思ってないのに*2、勝手に自分がイライラを作ってイライラしてる。こう考えるとなんか損だ。

幸せの沸点をぐっと下げること

逆に些細なことで、あぁー、幸せだなと思うように意識すると雨の日はぐっと楽になる。ちょっと視野を広げれば不快な雨の日でも嬉しいことは街にあふれているよ。

  • 暑くジメジメしてる電車の中も10秒に一度当たる冷房の風に嬉しくなると、1分間に6回も嬉しいことが起こる。
  • 電車の中でふと周りを見渡すと皆神妙な顔をしてる。皆イライラしてるのに自分だけなんか余裕がある。ラッキー。
  • あ、お姉ちゃんのあのブーツかわいい。
  • 行き:足さばきを上手にこなして靴に浸水しなかった。自分を自分で褒めた。
  • 帰り:逆に浸水した。でも別にどうってことない。冷静に考えたら何の不利益もない。ただ靴下が濡れただけだ。
  • 家に帰って明日の天気予報を見る。明日は晴れだ*3。ラッキー

とまあこんな感じだ。結構沸点を下げようと意識するだけで多くのイライラは解消される。
 
雨の日に限ったことじゃない。インターネットでページが繋がりにくかったり、待ち合わせで相手が10分遅刻した時だったり、冷静に考えてみるとホントに些細なことで日々イライラしている。だけどそのイライラってどんな意味があるんだろう。イライラしても全然得しない。だったら10分くらい優しく待ってあげればいいじゃん。つまりイライラの構造って、自分でイライラを作り上げて、勝手に自分でイライラしてる。ホントにおめでたい。
もしイライラしてきたら、ふと冷静になって周りを見渡してみるといい。好みのお姉さんが近くを歩いてるかもしれない。太陽がまぶしいかもしれない。はたまた同じようにオッサンがイライラしてるかもしれない。その醜さを見て、オッサンいったい何にイライラしてるの?と冷めた態度で見られればこっちの勝ちだ。
とまあ、イライラは自分が作り出している幻想である事と、嬉しいなと思うことの沸点を下げる意識をする事。この2つを頭の中にいれてれば結構日々受けてるストレスを緩和できる。ストレス社会だからこそ寛容の精神でいこうじゃないか =)

*1:プラシーボ効果。よくしらない。

*2:そもそも相手がいない場合も多い。物を落としたらびしょ濡れになってイライラする、とか。これって冷静に考えると本当になんでイライラするのかわからないくらい滑稽だ。

*3:ちなみに明日は雨だ

ロンブー淳の政治家的ポテンシャル

ロンブー淳が政治家を目指すというデイリースポーツの飛ばし記事が出た。意外に思うかもしれないが、彼は2年前に読売新聞で政治についての連載を持っており、それを読んでみたら結構示唆深いこと言っている。なので彼を擁護する記事を書くには機を逸した感があるが、今後、淳が出馬した時に掘り起こすためにも彼の発言と政治家的な資質についてまとめておこう。
ちなみに上記飛ばし記事はてブのコメントは批判だらけで、出馬が決まったわけでもないのに、その批判のされようは森善朗とか山拓を彷彿とさせる大物感を漂わせている。

リア充的発想

さて、本題。彼は読売新聞(夕刊)で2007年9月から2008年1月まで月1回のペースで「千思万考」と題した政治の記事を連載していた*1。コンセプトは「政治のことがよくわからない田村淳が政治のことを語る」というもの。内容は紙のように軽くて薄いんだけど、結構いい切り口、というかいい視点もってるなーと思った。
例えば、若者の投票率を向上させるためには?というお題があったとしよう。ネットで情報を収集する人間であれば、若者の投票率を挙げる手段としてすぐ思いつくのはネット投票だ。しかし、淳は「スタバとか、マックとか、TSUTAYAとか、人の集まるところに投票箱を設置する*2」とリア充的発想で打ち手を提示している。確かにネットよりもこっちのがリテラシーもいらないし、普通の人にとってみればパソコンを立ち上げて、検索サイトにいって、キーワードを打ち込んで、特設サイトにいくよりも、街に繰り出したついでに立ち寄れる淳の案の方が投票者のコストは低そうだ*3。思うに、彼は当たり前のことをバッと指摘する力に優れている。
ちなみに上の打ち手はアイディアベースではなくて、記事を読むと「投票所に行ったら老人ばかりだった」という自身の体験→若者が投票に行っていない→政治に若者の意見を反映できない→若者の投票率を上げる必要がある→若者の集まるところに投票所を作ればいい→スタバとかマックじゃね?というロジックがちゃんと読みとれる。なんだ、この人結構考えられるんじゃん。

政治とカネの問題

淳は政治とカネの問題に対してもクソ正論を言う。

なんであんなにお金の不祥事が起こってしまうんでしょうか。そもそも政治家の活動をするのにお金がたくさん必要なのでしょうか。そんなにたくさん必要なら、たくさん使えるように法律を変えてしまえばいいのです。毎度、毎度、不正のニュースを見て落胆するくらいなら、お金をきちんと政治家の先生たちに必要なだけ払って、存分に国のために働いてもらった方がよいと思ってしまいます。
「千思万向 「悪っぽい」政治家もいい」『読売新聞』夕刊2007年10月19日16面

政治とカネの論争では「政治にカネをかけてはいけない」といった論調が目につく。しかし淳のこの発言は素人ゆえのゼロベース思考というか、脳味噌が柔らかい感じがする逆の発想だ。確かに本当に政治にカネがかかるなら必要なだけ払ってやればいい。議員が立法するアメリカでは上院議員の政策スタッフの平均は44人で下院議員でも十数人だ。一方の日本では公費で雇える秘書は政策秘書、第一秘書、第二秘書の3人だ。こんなんで立法できるの?官僚打破とか言ってるけどその打破した後に誰が政策を法律として具体化するんだろうか。
また選挙にカネをかけるのは悪い!と反射的に思ってしまいがちだが、冷静に考えるとやはり本当にそうだろうか?なんの地盤もない有能な人が選挙に立候補したとき、市民に知ってもらうためには、効果的に知名度を上げるためには、おカネが必要なのではないだろうか?選挙にお金をかけるな!というのは既に地盤のある人に有利になるんじゃないかな。と淳の記事を読んでそう思ったりした。こんな感じに淳はなかなか鋭い。

結論:ポテンシャルは十分。

最後に、淳が出馬した暁には自分擁護なるだろうと思われるような発言もしている。

昔のことを保持繰り出して政治家を追いこむやり方は僕は大嫌いです。政治家になる前の過去は、どんなに頑張っても変えられません。これから国のために頑張るという気持ちをくんで投票者は選ぶと思います。
「千思万向 「悪っぽい」政治家もいい」『読売新聞』夕刊2007年10月19日16面

うむ。かつて淫行で世間を騒がせた宮崎県知事は頑張ってるようだし、過去の私生活が政治のパフォーマンスを左右する訳でなさそうだ。淳も「改心」して、ちゃんと国民のためを思ってることが通じればいいね。とりま結論としては、淳は地頭はいいタイプ。既成概念に囚われない柔軟な思考で問題を見つける能力はありそうだ、ということだ。記事冒頭の飛ばし記事にも「下関市議でまずは勉強したい」とあるように意外にも堅実なタイプなのかもしれない。政治家としてのポテンシャルは十分あるように思う。あとは当選する力だけだ。

*1:読売側から話を持ちかけたようだが、扱いは寄稿記事となっている

*2:田村淳「千思万向 政治に参加しませんか」『読売新聞』夕刊2007年9月21日18面

*3:実施するための選挙のコストの話じゃないよ!

Amebaの首相官邸ブログには違和感を持ちつつも、やるなと思った件

お昼頃にヤフーかなんかのニュースで首相官邸ブログアメブロでスタートてな記事を読んだときに、よりによってアメブロかよと違和感を覚えた。そしたら夜になってAmebaで開始された首相官邸ブログに異和感を感じる。という良エントリーが投稿され、あぁ、これだったのかとよくわかった。
ところがふと、先日のTwitterと鳩山の話題を思い出し、色々疑問が思い浮かび、結局鳩山政権やるじゃんと結論に至ったのである*1

もし鳩山がTwitterを始めていたら?

サイトを見ると、鳩山首相の画像の右下に、通常の芸能人のブログのように、Powered by Amebaの文字が。政府機関が一民間企業のサービスに「Powered」されていると公言することなど、自分としてはあり得ないことだと思う。さらに下の方には「他の」芸能人たちのブログへのリンクが、並んでいる。
Amebaで開始された首相官邸ブログに異和感を感じる。

という感じに、アメブロにブログを書くことが具合が悪いと述べている。しかし、もし仮に鳩山がTwitterを始めていたら上の指摘と同じ問題に直面する。すなわち、Twitterの鳩山のホームには一私企業であるツイッター社(?)のロゴが表示され、鳩山アイコンの下にはフォローしている人たちのアイコンとリンクが並んでいることになる。だけどこれって何の問題もなくね??オバマとか普通にそうやってっけど。なぜかツイッター社なら許せて、CAだと許せない不思議。
という導入部の挑発文句は挑発文句で返しておく。でもって、ソースの指摘する本質的な問題は2つである。

  • 公式的なドメインを取得してからサービスを受けた方がよかった(準備不足)
  • 数あるブログ業者からなぜアメーバを選んだのかが分からない。(透明性)(追記・コメ欄より:こういうのは随意契約じゃなく公開入札って決まりでしょ?民主党はずっとそこを厳しくしてきたでしょ?)

これは非常に鋭い指摘で、問題だとおもう。本記事ではこれに反論する気はさらさらないので(むしろ改善すべき問題だと思う)、逆にやるなーと思った点を述べたい。こういう新しい分野に関する問題は意見を潰しあうのではなくて、メリット、デメリットをどんどん出してから一番いい方法で実施すればいい。いずれにせよ、どんどん新しいテクノロジーを使って政治を楽しくしていきたいという部分に関してはソース元の著者と同意見だからね。

頭柔らかい。新しい政権にふさわしい斬新なイメージを持った。

自分は逆にアメーバでブログを書いたのは斬新なイメージで、既存のやり方に囚われないんだなという方向に受け止めている。

  • 辻ちゃんのブログに鳩山のブログがリンクされる可能性。

アメブロといえば、芸能人ブログだ。芸能人ブログはエントリーの下のリンクで繋がりあってる。前に自分も辻ちゃんのブログ*2から、何の興味もない北斗晶のブログに飛んだことがある(そして案外面白くてびっくりした)。民間のブログ会社を使うことでこういう効果の可能性だってあるということだ。つまり官邸ブログがアクセス次第によって芸能人ブログからリンクされることがあるってことだ。芸能人ブログからのリンクはなくとも、官邸ブログはアメブロにとって目玉ブログであることは間違いないから、自然、露出は増えるだろう。こういうきっかけで、政治になんの興味もなかった人がクリックするかもしれない。そしたらなんか政治に親近感がわくかもしれない。ダルビッシュサエコ北斗晶、その他芸能人に挟まれた鳩山はさぞかしシュールな図だろう。
 

もちろん「Amebaで開始された首相官邸ブログに異和感を感じる。」が指摘するように透明性、つまりなんでアメーバなの?ってのは気になるところだけど、基本的にブログの管理ぐらいアウトソーシングしていいでしょ。官邸の職員だって有限なリソースなんだし、効率はブログ業者の方がいい。なんといってもコスト的にはクソ安いことに間違いない。餅は餅屋だ。
 

  • 私的企業と政府の繋がり

上は仕事に関する裁量の問題だとしたら、こっちはそもそも、一企業を贔屓してもいいの?という話だ。でも政府って常に私的企業と取引してる。公共事業工事だったら発注して私的企業にお金を払ってる。政府の広告だって広告代理店通して各メディアに載せている。そのメディアがたまたまCAの運営しているブログになっただけだと捉えてみればなんの問題もない。透明性の話だって雑誌に政府広告が載ってるのを見て、通した代理店が電通なのか博報堂なのかとやかく思わないだろう。この広告は『家の光』と『女性自身』に載っているらしいが、なんでこの2社になったのか別に疑問に思わない*3
そんな感じで、僕はむしろアメブロにそのまま官邸ブログを始めたのは斬新なアイディアだと思う。なににしろ一番のバリューは親しみやすいこと。だって首相官邸のHPにブログひっそりと書いたって政治フリークのオッサンしか読みに行かないでしょ!

*1:注:Amebaで開始された首相官邸ブログに異和感を感じる。の著者さんには疑問を直接Twitterでお尋ねして、既に丁寧な回答をいただいています:)

*2:ちなみに辻ちゃんのブログは自分には刺さらないブログだった。

*3:あれか、「Amebaで開始された首相官邸ブログに異和感を感じる。」が指摘するようにアメブロじゃなくても引く手あまただと思われるから透明性が必要なのか。それならわかる気もする。

山本譲司『累犯障害者』

子飼弾の書評につられて買ってみたのだが、考えさせられる一冊だった。
内容は題名通り、障害者の犯罪について書いたもので、感じとしては無限回廊にある1960年代以前の記事をひたすら読むイメージ。犯人の背景の悲しさとか社会に対してのやりきれなさが残る点が似ている。無限回廊を読んでちょっとダメだわって人は厳しいかもしれない。

健常者と障害者の違いは確実にある

障害者と健常者は同じ人間である。だがしかし育った環境も、考え方も、価値観も違うことは確実だ。例えば我々は論理を持って正しいとするが、障害者にその物差しはない。裁判や取り調べにおける犯人たちへの尋問の描写は、なにか現代人が中世ヨーロッパにぶっ飛んで、こんこんと科学を説くが「えっ?でも神がああいってるから」ともはや別次元でのやりとりにも聞こえる。つまり話のレイアーが噛み合わないのだ。(誤解があるといけないので。別に健常者が正しくて、それを障害者が理解できないというわけではなく、行動の基をなしている根本的な原理が違うということ。)

「正さん、長い間、大変でしたね。拘置所の中の生活はどうでしたか?」
正さんは、「うん」と言っただけで、下を向いてしまった。思った通り、中傷的な質問には答えられないようだ。
「私も拘置所に入っていたことがあるんですよ。今の時期は本当に寒いでしょうね。正さん、あそこの中は寒かったですか」
私が拘置支所を指さしながら、そう尋ねると、正さんはうつむいたまま答える。
「うん、寒かった」
さらにもう一度質問してみた。
「でも、建て替えで新しくなっているところもあるようですし、もし正さんがあそこにいたら、そんなに寒くなかったかもしれませんね」
「うん、寒くなかった」
今度は、反対の言葉帰ってきた。だが結局は、「オウム返し」なのだ。これでは取り調べの中で、いくらでも供述を誘導されてしまいそうだ。
83-84頁

ここには論理という我々の世界の物差しは存在しない。
それにもかかわらず、障害者たちは論理という健常者の世界の物差しでもって、健常者の世界の中でも「超常識人」たる検察官に責められ、弁護士に守られ、裁判官に裁かれる。裁判を取り巻く健常者たちはロジックの世界のエリートで、まさかそれが通用しない世界なんて全く理解不能なのだろう。例として本書に描かれる母親(1年半前に死んだ)と住んでいた家に「住居不法侵入」で捕まった知的障害者の裁判の様子を紹介する。

「もうあそこの家は、君の家じゃないんだ。お母さんもいないの。勝手に他人の家に入ったら犯罪になるんだ。それくらい分かるだろ
被告人は法廷に入って以来、肩をすぼめてふるえていた。その顔は、今にも泣き崩れそうな表情である。
「君ね、刑務所から出てきたばかりでしょ。もう悪いことをするのはよしなさいよ」
「うおー、うおー、うおー」
突然被告人がせきを切ったように泣き声を上げだした。それに対して、検察官は大きなため息をつく。一方、国選弁護人である若い弁護士は、閉口したように顔を歪めている。
「おかーたーん、おかーたーん、うおー、うおー」
母親に救いを求めるようにあちこちに目を走らせる被告人。するとだ。ズボンの裾から液体が漏れてきた。どうやら、彼は失禁してしまったらしい。そして鳴き声は、さらに大きくなった。
「はい、はい、休廷」
裁判官が、邪険そうに言い放つ。
234-235頁

知的障害者に健常者の物差しは全く通用しない。「それくらい分かるだろ」と超常識人である検察官は言うが、分からないのである。彼にとってはずっと住んできた家で、今なぜ入って行ってはいけないのか分からない。分からないのだ、本来は裁きようがない。
社会のルールを作ってるのは健常者である故に、障害者らに施される教育は健常者の世界にすり寄っていく為の技術だ*1。もしそれら技術の習得に不足であった場合、上のように健常者の物差しで裁かれることになる。本書では「障害者を刑務所の入り口に向かわせない福祉が必要である」と問題を提起して締められており、まさにその通りであるように思う。

東京の養護学校性教育問題

彼らの物差しと、我々の物差しが違うことを頭に入れておくと、東京都の七生養護学校で過剰な性教育の問題もしっくりくる。この問題、知識のない子供たちにヒドイ教育を!!と議員が騒いだのが始まりだ。しかしどうも教員側にも言い分があり、それを下に引用する。リンク先もなかなか良いので是非一読あれ。

とても大切なところだと教えなければならないから。自分の体の大切なところを守り、他人に見せたりするものではないと教えなければならないから。それは自分以外の人にとっても大切なところだからうかつ触れたりしてはいけないと教えなければならないから。ハッキリくっきり具体的に正確にそう教えなければ理解してくれない子供達だから。
都議会議員の田代ひろしと古賀俊昭と土屋たかゆきは、○○まみれの手で顔をヌルってされる現場で半年ほどバイトしてみるべきだろう

ようは知的障害者のためにカスタマイズした性教育が健常者の議員には「常軌を逸した」と映り、現場の教育関係者を左遷したという言い分だ。過剰な性教育だと騒ぎたてた議員は「我々の物差し」で障害者の教育を判断してしまったのだろう。一方で日常から障害者に接する教職員は障害者の物差しでプログラムを作ったと。問題は一般人からみて明らかに教育が異常に見えてしまうことだ。手製のダッチワイフに棒突っ込んで教え込む性教育は騒ぎ出した議員でなくとも遅かれ早かれ批判がおこっただろう。だからまず必要なことは、健常者と障害者どちらが正しいとかそういう意味でなく、持っている物差しが違う(神々の闘争)という点を知るべきである。また、物差しが違うが社会の構造上、現時点において健常者の物差しで社会のルールが定められており、このギャップを埋めるのが福祉であると思う。
その福祉については子飼弾の言い分があまりに本質をついてると思うので、敗北宣言とともに引用させてもらう。

福祉というのは、結局のところ、「かわいそうな誰か」を助けることではなく、「いつ不幸になってもおかしくない自分たち」を助けるために存在するのではないか。そうでなければ、わざわざ社会に参加し、その費用を負担する理由もまたなくなってしまうのだ。
返す言葉が見つからない - 書評 - 累犯障害者」404 Blog Not Found

ふとした事故、あるいは自分の子供の可能性を考えると、いつまでも常に健常者としての物差しを持っているとは限らない。それを考慮してこの問題に取り組まなければならない。

*1:本書では聾者に教える手話ですら、聾者間で用いられるものではないと指摘している

OZAWA 2.0 の現状と可能性

Chikirinさんの選挙で必要なのはOZAWA 2.0というエントリーがなかなか秀逸だ。ようはドブ板選挙をもうちょっと工夫して政策ベースの争いにしませんか?という問題提起。今日はこのOZAWA 2.0の各党の取り組み具合と可能性について考えたい。
実はこの手の問題意識を抱えている議員は多い。以前ある国会議員の話を聞いたとき「議員が政策で選ばれるのではなくて、地元で何回盆踊りで踊ったか、冠婚葬祭にどれだけ顔を出したかで決まってしまうのは問題だ。」と強く言っていた。同じように自民党田村耕太郎もTwitterで政策ベースでの選挙の必要性を発言している。

政策よりもドブ板のが集票力がある

このドブ板から政策の議論をしようという流れは実践においても過渡期で、色んな取り組みがなされている。今年の4月には自民党が政策的なマーケティング調査を初めて行った*1し、政党の政策を比較できるようなマニフェストも定着した。このように日本の選挙はドブ板から政策ベースの議論を重視する方向に動いているように思える。
ところがどっこい、より集票力があるのはどうやらドブ板の方らしい。民主党は2003年に外資系のPR会社フライシュマン・ヒラードと契約して、自らが掲げる政策をどうやったら国民にPRできるか徹底的にマーケティングしたが選挙で勝てなかった。今回の選挙の民主党の勝利も政策的な議論で勝っていたかと言えばNOで、議論は常に「まずは政権交代」の7文字で終了だった。2005年の郵政選挙も政策よりも「刺客」と「抵抗勢力」みたいな構図がウケていたように思う。その構図に民主党は入っておらず、結果、埋没した。
つまり結局のところ多くの有権者が関心があるのは政策ではなくて、候補者や政党がどれだけ信頼できるか(あるいは信頼できないか)というイメージの部分なのだろう。政党や政治家にとって金銭や女性のスキャンダルが致命傷となるのはその証拠だ。政策で勝負なら別に女に汚くてもいいじゃない、という論調は日本では聞いたことがない。今のところ政治家に求められる一番の要素は政策立案能力ではなく「清廉さ」なのだ。
もう一点、政党自体にも政策ベースで戦えなくする構造がある。結局のところ政党というのは議員という個人事業主の集まった「党派」にすぎず、「組織」としての推進力はほとんどない。トップダウンで命令しようにもトップはすぐに変わるし、議員は議員らで独自の選挙のノウハウを持っており(特に中選挙区時代からの議員)、いくら党本部が政策ベースでと指示したところで落選という形で責任をとるのは党ではなくて候補者本人だ*2。結果、候補者には集票できると信じられているドブ板に走るインセンティブが働く。政策で選挙を勝負するのであれば、党が落選した候補者の面倒をみる制度も充実させる必要があるだろう。

ネットのドブ板って従来のドブ板と性質が違うよね

こんな感じで政策ベースの選挙戦までは厳しい道のりだ。だがしかしネットのコミュニケーションは少し様相が異なる。ネット上のコミュニケーションって結構政策的なコミュニケーションが取れている*3。自分が身近に感じている例が議員のTwitterでのつぶやきだ。例えば「盆踊りなう」なんて発言したところでほとんどバリューがなく、RTもされないだろう。これは従来のドブ板ならとてもバリューがあったことだ(おらが町内の祭りに議員がきた!的な)。むしろ議員の発言のうち政策的なものがより多くRTされ議論を呼んでいるように思う。Twitterを通じて国会議員って結構日本のこと考えているんだなとか当たり前だけど新鮮に感じた人も多いんじゃないかな。少なくとも自分はそう思った。
ようは議員に親しみを持つきっかけが従来のドブ板とは違って、若干政策的なものが入ってくるのがネットのコミュニケーションだ。ネット上では握手もできないし、「雰囲気」とか中身のないものは伝わらず、中身のあるものが伝わる性質がある。OZAWA 2.0の可能性はこの部分にあるように思う。つまり、これから数年の間にというのは無理でも、ネット上での政治・選挙情報が解禁され、溢れていくにつれ徐々に政策ベースでのドブ板が浸透していくのではないだろうか。政策ベースのドブ板は国民の政治リテラシー能力を高めるきっかけになるし、このリテラシーはネットを用いた直接民主制には不可欠な能力だろう。やはりまずはネットでの選挙活動の規制の緩和だ。
とまあ、ネットでの選挙活動解禁がOZAWA 2.0をもたらし、国民の政治リテラシーを高めると随分飛躍した感があるが、可能性があるってことでいいんじゃないかな。この力の要因はネットの選挙活動というのは候補者本人の情報に触れられるって点だろう。ブログにしても、Twitterにしてもネットのコミュニケーションって見てる人はダイレクトに本人のモノを見る。そこには情報をキリハリする中間業者は存在しないし、議員の側もなるべくわかりやすく読んでほしいからわかりやすく工夫する。これがより促進していけば政治リテラシーにとって大きな作用をもたらすのは明白だ。
佐藤栄作は辞任会見の時に「テレビと話したい」といって(発言を切り貼りする)新聞記者を追いだした。しかしそのテレビも同じように発言をキリハリしたり、政治を茶化して報道するようになった。ネットにおいてようやく議員は有権者にダイレクトに情報を伝えることができるようになったのである。(了)
 
(今日のエントリーをまとめて箇条書きに)

  • 現在、実践の場でも政策ベースで取り組もうという流れはある。
  • でもドブ板の方が集票力があるらしい。
  • 一方でネットでは結構政策的なコミュニケーションが取れている。
  • こっちの方に活路を求めれば長期的には政策ベースの議論になるのではないだろうか。
  • あと、国民の政治リテラシーも上がるよ。

*1:日経net「自民が「政策マーケティング」 衆院選準備、100激戦区で 」:自民党は次期衆院選準備で、各選挙区で有権者がどのような政策を望んでいるかを分析する「政策マーケティング」という手法を導入する。各候補者が街頭演説やリーフレットなどで効果的に政策をアピールできるよう支援する狙い。党執行部はすでに系列シンクタンクに調査を指示しており、月内にも報告書をまとめる。欧米では一般的な選挙戦術だが、自民党では初めてという。(2009年4月19日)

*2:自民党が2004年にプラップ・ジャパンと契約してPRについては党本部がリードした際、すさまじい抵抗にあったと案を主導した世耕弘成は述べている。『自民党改造。プロジェクト650日』に詳しい。

*3:他にも例えばネトウヨと呼ばれる人たちにしてもベースは政策的なモノだ。感情的なものもだいぶあるけど。